力量論抄

 用神の取用法に付いて、授業中に、とても面白い、とても有意義な、質問を受けました。

 その質問を要約すると「辛日の身旺の人にとって、甲の正財は用神の働きをし、常識が有って計画性が有って、無条件で良い働きをするとすると習ったのですが、身旺にて正財が命式中に無くて、甲の正財が大運に突然くると、却って災いを発生すると判断したのは何故ですか」と言う質問でした。
 
 この疑問に対する重要な点は、命式の構造・用神・喜神の力量などに依って、用神が正常に機能するのか、しないのかと言う点にあります。

 この場合の様な命式の判断をするためには、予め身旺で原命式に甲の用神を持って居るか、壬の傷官のみを持って居るのか、又は甲の用神も壬の喜神も共に持って居るか居ないのか、を分別して置かねばなりません。



 この質問の場合は、全く壬の喜神も甲の用神も持って居ない命式にて、 甲寅の大運がやってきた場合の事です。


 身旺の者が、壬の喜神のみが来て甲の用神の無い時には、楽をしてお金や利益を得ようと思う欲心のみが働き、争いを起こすよりも、手段を選ばず自分の目的を引き寄せようとします。

 また、命式に壬の喜神も甲の用神もない時に、突然甲の用神が大運などに顕われた時は、他人の物でも奪いたくなり、自らも災いを蒙る可能性が有ります。
 

 辛日の申月や酉月の身旺の場合に、用神として甲を必要とし、喜神としての壬を必要します。
 
 特に甲を常識の星と見做し、壬を欲心の星と教えており、これに付いては全く異論は有りません。

 ただし、極身旺の命式で、最初から命式中に甲の正財が付いている物と、命式中に全く甲が付いて居らず、大運に突然甲が来たものとでは、力量の違いや命式の構造や力量の違いに伴って、鑑定には相違を生じます。

 この判断に付いても、明らかな違いを以って鑑定をするためには、力量の違いと命式の形の違いに精通せねばなりません。

 元来、比肩劫財はファイトの星・努力の星・欲心の星・焦りの星でもあります。

 もしも身旺でも、原命式中に甲の財神が一つでも付いていると、本質的に常識的な人間であるべきだと思う気持ちを、最初から持って居る事に成ります。

 その常識の気持ちの強弱は、甲の多少と強弱に因る事は、お分かり頂けると思います。


 もしも、命式中に比肩・劫財や印綬・偏印等のみが有って、普通命式と成るときに、甲の財神が無ければ、我欲のみで構成された思考法で行動を起こす人と成りますが、一見すると、命式に財神を持って居ないので、真面目で欲心は無いように装って居ます。

 しかし、命式中に無くても、財が用神である事には変わりがなく、財に対する非常な興味と執着心を隠し持っております。

 この様な命式の人が、甲寅等の運が大運に来ると、確かに用神ですから、本人には良い事が起こるように見えますが、元来は常識の星を備えて居なかったのですから、突然甲寅の常識の星が来たからと言って常識は身に付き難く、ただ財神が目の前に出現したと感じるだけで、用神としての働きは未成熟です。

 その為に、この人は本人は幸せでも、周囲の人には迷惑を掛ける事に成り易く、最終的には自分自身も行き過ぎて、他人の財を奪う事を試みて災いを発生するので、必ずしも吉運とは判断致しません。

 この理論は、強旺格ににも当て嵌める事の出来る理論ですので、活用してください。 


  
 この質問の様に、一歩踏み込んだ、微妙な力量の変化に付いての質問が、出来る様に生徒さんが成長してきた事は、非常に喜ばし事だと思って居ります。

緒方泰州と断易と推命学


 私は実は、推命家であるとともに、断易金澤流の黄金策を実践鑑定として、使いこなす事の出来る、恐らく最後の継承者ではないかと思います。
 
 私は、推命学を学ぶ前に断易の理論活用法・応用法を完全にマスターしていたことが、後々難解で未完成な推命学より脱出し、発展的な新たな推命学の実践技術の開発を独自に創作するには、非常に強い味方と成りました。


 断易は、今から2500年前の春秋戦国時代に鬼谷子によって、周易の不足を補う為に造られた、干支術である事は周知の物だと思います。
 また、推命学も典型的な干支術であり、どちらも干支術を代表する占術です。

 推命学はいまから1100年位前の、北宋時代より徐々に研究され形成され、明初の劉誠意によって完成された様なのですが、完成と同時に滴天髄という四柱推命の目次的な書物と、断易の完成形の黄金策を残して、世の中より消滅した物です。

 断易は、日辰・月建と得卦に納甲した物を用い、得卦には世爻と応爻が存在し、それぞれが四柱推命の機関に対応し、大運は断易の日辰に、歳運は断易の月建に値り、生日・日干は世爻に月干の、社会運は応爻に対応しており、実は、断易を横に展開した構造が四柱推命の構造と解釈でき、その様な使い方をすれば、非常に理解し易く成っております。

 何しろ、劉誠意が完全な形で継承してきた断易と、自らの手で完成した四柱推命学には、非常に近接した理論と共通性と凡用性が有り、同一の原理や考え方が貫かれています。

 中国にても推命学の解明の為に、断易の理論を用いる試みが成されて居る様ですが、残念ながら、中国では断易の使い方が消滅して居る様で、中国で易と言えば五行易を指すのです。
 

 その故、自然に五行易の理論を四柱推命に応用しようと試みた様で、冲去や合去や干合去等の五行易理論を推命学に取り入れ、ただでも内容の釈然としない四柱推命の理論を展開するも、更に混迷の度を深めているようです。



 日本には、江戸時代位から断易が輸入され、それなりにかなり、研究が進んで居たようで、五行易とは全く内容の違う、断易を完全に使いこなせる流派が、関東に九鬼流・諸口流が有り、関西には金澤流が存在しておりました。

 私は、推命学を勉強する前に、金澤流の達人であった、辻二元先生より劉誠意の黄金策の理論と応用法と実践法を完全にマスターさせて頂きましたので、四柱推命学の欠如して居る処や、間違って居る処や、不備な処等を新たに補修し、力量論や演式論や命式の型式論や、従来の調候用神法とは全く視点を違えた、泰州独自の用神取用法などを発明し、今迄の推命学を再構築しました。

 この様に、不完全な四柱推命学を補足充実するためには、断易の理論が非常に有効な手掛かり足掛かりに成りました。

 もしも、推命学の習得が出来て居るならば、断易の習得を目指される事をお勧めいたします。


 それから、四柱推命学の原書に付いてですが、劉誠意以後清朝から民国まで、なんとか劉誠意の理論まで、推命学を再構築しょうと努力した人々の痕跡が原書と言われる物ですが、それぞれの原書には相互に繋がりは無く、単独に個人的な独善的な要素も含まれた、未熟な点の有る見解と見做さねばなりません。

 私も、幸いに東洋史学の出身でしたから、原書を読むことに苦痛は無く、殆どの原書を読みましたが、もしも、一流の四柱推命学を目指すならば、原書の解読位は出来なければ問題にも成りませんが、これらの原書は決して善意のみで書かれた物では無く、判った振りをする嘘や毒の含まれている、物である事をも意識して置かねばなりません。



 推命を深く研究をしていると称せられる先生方は、せめて窮通宝鑑や滴天髄の独自の翻訳位は、挑戦して見られては如何でしょうか。
 原書の読み下しは、一文で5種類位の読み下しと、解釈が可能な物です。
 他人の訳文を読んだ位では、問題にもなりません。
 自分で、原書を解読すれば、視点も変わり考え方も刺激を受け、新たな発見にも繋がります。
 一流をめざし、独自性を発揮する気持ちが有るのならば、原書の一つも読めない様では如何な物でしょうか。

緒方泰州の推命論   例えば  悪神論等について


 私は、推命学はただ単に、故人・先人の理論を継承するだけでは、推命学は衰亡劣化の一途を辿り学問性の無い、蒙昧な推命学になるだけであると考え、独自の理論を構築し、泰山流の範囲を乗り越えて、劉誠意の完成した本来の推命学を再構築する事に努め、さらに旧来の推命学の弊害を取り除いて、全く新しい独自の推命学を構築して参りました。

 
 お陰で、私が過去に沢山の先輩たちに学んだ推命学を棄却し、一般の現行の推命学とは全く違った、所謂、窮通寶鑑の調候用神法とは違った独自の用神取用法を構築し、緒方泰州独自の推命学を完成する事が出来ました。

 
 私の教室にても、月令を悪神とし、月令の悪い影響を緩和する物を用神として、命式自体の歪みを中和する事の出来る、星の選定と力量の把握によって、命式の用神の必要量を考え、幸せに成る為の努力の方法や努力の量を、計測する方法を、用神取用法論として教授してきましたが、これは泰州の推命論の表側の一部の理論であり、泰州の推命論の半分以下にしか過ぎません。

 
 もしも、用神取用法を完全に習得して、更なる鑑定法の習得を目指し、様々な学習意識を持って独自な発想を目指すならば、更なる鑑定力の向上が望めます。


 
 緒方泰州の種々保有する推命学理論のほんの一端ですが、例えば、悪神論に触れてみたいと思います。

 
 悪神論は、用神論と同等の同量の理論と体系を有しており、更に接近論と言って悪神がどの様な速度で、どの様な甘言を用いて近寄って来るかを、具体的に知る理論が有り、更には力量論によってその結果、どの様な被害程度を及ぼすか等を、判断する理論体系の基本なのです。
 
 命式に用神が完備していても、悪神が命式中に有れば、用神が完全に作用している期間は、悪神は大人しいのですが、用神の微妙な力量の変化に伴って、悪神は変化する力を持っており、普通に考えて用神の働きを邪魔する働きとは、また別の作用を保持し温存して、悪神として目覚める時期を静かに待ち、時至れば必ず作用を起す能力が有るのです。

 本人がどの様な誘いを受けるのかと言う、意識を以って防がなければ、必ず凶の作用を起こさんと狙っています。
 
 
 命式が同様の型式で出来て居て、命式中の用神の存在数も同様で有っても、悪神が命式中に有れば、運勢はそれぞれの悪神独自な影響を受けると考えねば成りません。

 
 命式中に悪神が存在すれば、悪神の存在する形状や力量は、用神の形状や力量が同一でも、別の作用の仕方をするのですから、用神が同一の命式でも、鑑定は自然に別々の鑑定を着けねばなりません。

 
 接近論とは、悪神や仇星や喜神等がどの様な姿、どの様な話し方で近寄って来るのか等の理論を、接近論と言います。

 用神は、元来無愛想な物ですが、忌神・悪神は愛想が良く、しつこく魅力的な姿で、繰り返し近寄って来るものなのです。

 

 また、閑神論は、閑神を普通の鑑定家は判断の材料とは考えていない様ですが、普段は静かで大人しい通変星の作用しかしない星の事ですが、命式の力量の変化に伴って、通変星の姿を捨てて、強烈な悪神に変化する事を知り、その変化を捉える理論です。

 用神論を完全に習得していれば、独力にても様々な悪神論周辺の理論の会得が可能かと思われます。

 
 泰州の推命理論にては、用神と調候用神と喜神と禁忌の星とは、全く別個の働きをする物と認識し、判断の仕方にも合理性と独自性を持って居ます。

 
 喜神が、特定の条件下では悪神以上の強烈な作用を起こす、喜神論に付いても、何れ何時か機会が有りましたならば、お話しょうと思います。